山形県北部、庄内地方のさらに奥深く。
山々に囲まれたその最終地点に、「大鳥集落」という小さな集落がある。

僕がここを訪れたのは、2022年の夏だった。
市街地から離れ、川沿いの道を進むにつれて、
人の気配は薄れ、代わりに山の存在感だけが濃くなる。
その奥に、大鳥マタギと呼ばれる人々が暮らしている。

先人から受け継いだ山の知恵と文化を守り、
次の世代へつなごうとしている人たちだ。
昭和18年2月11日生まれ、
齢80を超えるマタギ・佐藤征勝さんは、静かにこう語った。
それは、4月のまだ雪が残る春山で
熊撃ちをしていた時の話だ。
撃ち損じた熊が、逃げるように、沢の滝口へそのまま滑り落ちてしまった。
落ちた先は“穴”と呼ばれる滝壺。

そこは真っ暗闇で、雪解け水が激しく落ちるだけの、冷たい空間だった。
「クマってのは、一回撃っても完全には死なないんだよなぁ」
手負いになった熊は、さらに凶暴になる。
だが、仕留めた熊は回収しなければならない。
佐藤さんはカッパを着て、ヘッドライトの明かりだけを頼りに、滝壺の奥へ入っていった。
雪解け水が容赦なく、体に叩きつけられる。
ただでさえ、そんなことはしたくないのに
生きているかもしれない熊が下で待ち受けているのだ。

滑る岩肌。暗闇。
ロープをかけるため、濡れた岩肌を伝いながら熊の体に近づく。
手負いの熊が生きていれば、一瞬で襲われる距離だ。
「そりゃあ怖いよ。暗いし、何も見えねぇし……。あれは本当に嫌だったな」
熊を滝壺から引き上げても、まだまだ安心ではなかった。
――びしーん。
山全体が震えるような、雪が割れる音が響いた。
雪崩の前兆特有の、鋭く、乾いた“裂ける音”だ。

「いつ雪が落ちてくるかわからない……」
頭上の雪壁がいつ崩れてもおかしくない状況だった。
逃げ場はほとんどない。
佐藤さんは、その瞬間だけは「本当に怖い」と感じたという。
それでも熊を引き上げ、無事に山へ帰った。
「危ない思いはそれくらい。でも熊狩りで命の危険を感じたことは、ほとんどない」
淡々と言う佐藤さんの横顔には、
山で生きる者の覚悟と、自然への畏れが滲んでいた。